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8月28日にレッドベリースタジオで開かれた、このまちの歴史を語ろう「夜なべ談義」特別講演「九州まで出かけた屯田兵」(講師 永井秀夫北大名誉教授)で、 熊本県から参加した山江村歴史民俗資料館の菖蒲和弘さんから 「屯田兵は最新式兵器を使い勇猛果敢に戦った。本陣があった聖泉院(現在の人吉市内で山江村の隣)の近くの人々は雑炊の炊き出しなどをして助けた」 などといった興味深いお話が飛び出しました。 ![]() ↑永井名誉教授と参加者 発言する菖蒲さん↓
![]() 明治10年の西南の役では熊本城の攻防、田原坂の戦いが激戦として有名ですが、屯田兵が参加したのは田原坂の戦いが終わって西郷軍が鹿児島に敗走したとき。 すでに大勢は決しており、屯田兵の人的被害が少なかったことから、無駄な出兵だったとする見方もありました。 ところが菖蒲さんによると、屯田兵たちは勇猛果敢に戦った、と山江村には言い伝えられているそうです。 山江村は屯田兵が進軍した山岳地。隣の人吉は城下町で熊本城、田原坂に次ぐ激戦地となりました。 6月1日に総攻撃が行われ、本陣とした聖泉院近くの人々は屯田兵に雑炊の炊き出しをしました。というのも前の年に干ばつで米がなかったためでした。 西郷軍は4斤砲を140門もそろえて政府軍を迎え撃ちました。人吉の城下では大砲の弾も鋳造でき、最後の防衛線だったはずでした。 ところが屯田兵には政府から最新式の装備が貸与され、その中にはロケット砲や機関銃のガトリング砲がありました。日本で初めてロケット砲を発射したのは屯田兵だったという説は有力です。 こうした兵器で戦ったために人的被害は最小限にとどまったようです。貸与品は北海道に帰る前に返還しました。 支給品の中にはパンなどのほか牛肉の缶詰1000缶というのもありました。缶詰は輸入品だったらしく、その優遇ぶりから政府の期待の大きさが想像できます。 人吉市の聖泉院には戦死した4名の屯田兵がまつられ、毎年6月1日には追善供養をしており、今年まで128年続いているそうです。 以上が菖蒲さんのお話のあらましで、参加者はたちは我がマチを開いた屯田兵に寄せる思いを、また新たにしたようでした。 |